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セイレーンの夢を見た。 道花の真名がまだ、呪われていなかったころ……いまから八年前の、ある夏の一日。夢の中を浮遊しているかのようにそのときの状況が過去から現在の道花へと伝えられていく。さながらこの世界を俯瞰するかのような錯覚に、目眩さえ感じる。まるで自分が神になったかのようだ。
灼熱の太陽を浴びて真っ赤になった肌よりも濃い真紅が真っ白なワンピースに痕をつけていた。シュウシュウと爛れるような音を立てて縮れた布地を引き裂いて、当時七歳の道花は泣きそうな顔を隠そうともせず、目の前で傷ついた少年の腕を引きよせ施術をはじめている。彼は誰だろう、どこかで見たような気がするけれど……
真名の封じとともにいままで忘れ去られていた思い出が、顔を出しはじめたことに道花は気づいていない。だから、過去の事象をもういちど、はじめから追体験していく。
「だいじょうぶだ、これくらい」
「だめ! バイ菌が入ったら腕が腐っちゃう。それに、このままにしたら潮風が吹くたびに痛みをぶり返すことになる」 「きみを護ることができた勲章だ。潮風が吹くたびにきみを想うことができる」 「ばか」神謡を口に乗せ、少女はとっとと少年の傷を癒していく。血のように赤い夕陽の照り返しを受けて、目の前に拡がる海もまた、あかい色に染まっていた。
「あたしなら、国神さまが護ってくれるから護る必要ないのに」
「おれが護りたかったんだよ」たとえ国神の加護で死ぬことはないと知っていても、少年は目の前の少女が傷つく姿をこれ以上見ていたくなかったのだ。
その言葉に、幼い道花が怪訝そうな表情を浮かべる。「……あたしが珊瑚蓮の精霊だから?」
ナターシャや、神殿のみんなは、道花が海神の祝福を受けた珊瑚蓮の精霊だから、ちからを欲する異形に生命を狙われるのだと、だから我々が護るのだといつも口にしていた。だから目の前の異国風の装いの少年もまた、自分の持つ未知のちからに惹かれてきたんだと、つい、考えてしまった。
だから彼の応えに驚いた。「……僕は?」 ふたつみっつと花開いていた珊瑚蓮は、気づけば数えられないほどの花をいちめんに咲かせていた。海の紺碧に桜色の蓮花が浮かび上がり、夢のような情景を描き出す。「兄上!」 仙哉の声に気づいた悠凛がパッと顔を輝かせ、駈けていく。カイジールは幽鬼となった彼が自我を取り戻した奇跡に呆然とし、視線を海へ落とす。「まさか……女王陛下」 貴女は仙哉を殺したと、そう言っていたのに。彼の自我は死んでなんかいなかった。珊瑚蓮の開花とともに、彼は蘇って、笑顔を咲かせている。 同時に静まり返っていた神殿が、ざわめきを取り戻す。仙哉の生還が、国祖の狗たちにも伝わったのだ。「――貴女は、どこまで悪役になりきれないのです」 これだけ暴れておいて、結局自分が明確な殺意を持って手にかけたのは九十八代神皇帝ただひとり。彼女に振り回されるように現れた鬼神も、最後には自分の不利を悟って冥穴のなかへ帰ってしまった。悪しきモノを問答無用で浄化する桜色の珊瑚蓮が咲いたから。 パシャ、と水が跳ねる音とともに、カイジールの耳元に甲高い笑い声が谺する。『だって、愛していたんですもの』 ただひとり、長い人魚の一生のなかで愛した人間。誰よりも彼のことを考えた。彼が愛した土地、ひと、世界を壊してでも、彼さえいればいいと思った。 けれどそれは間違いだった。オリヴィエは最後まで気づかずにいたのか、それとも気づかないふりを通していたのか…… カイジールは咲き誇る珊瑚蓮の花にそっと触れ、淋しそうに微笑う。「冥穴からやってきたボクのことは、消してくれないのかな」 「消えたかったんですか?」 「まさか。もともと人魚は異形なんだ。だからこういう事態に陥ったら消えても文句は言えないなぁと思っただけ」 背後で聞こえるのは晩餐の席で甘く囁いた青年の声。彼は男人魚だったときからカイジールのことだけをじっと眼で追っていた。自我を失わずに済んだのは、自分のことを想っていてくれたから、なのかもしれない。「でも、そしたら僕は泣いてしまいますよ」 珊瑚蓮の茎をかきわけて、仙哉がカイジールの前へ現れる。幽鬼となったときの記憶が抜けているからか、まだどこか夢を見ているような状態なのかもしれない。だから、素直に気持ちをぶつけてくる。どうせ、夢だから。「……女性になった貴女は、もっと綺麗ですね」
* * * 「なんなのよこの海水は!」 オリヴィエは困惑していた。人魚である自分に従順だった海が、いまになって反乱を起こしている。それもこれも、珊瑚蓮の精霊のせいだとわかっているから苛立たしい。「どうやら、形勢逆転のようだな」 ニヤニヤした表情でかつて愛したひとはオリヴィエに迫る。バルトの声に負けるものかとオリヴィエは甲高い声で言い返す。「そんなはずないわ、あたくしのちからが人間どもに劣るわけ……」 「ごめん、人間じゃないんだ」 波とともに現れた尾びれに、オリヴィエは声を荒げる。その声は、自分が封じたはずの、カイジールだったから。「カイジール?」 「ごきげんよう、女王陛下。ふふ、驚いた?」 男人魚だったはずのカイジールが、妖艶な女人魚に変わっている。これは、どういうこと?「革命の時間だよ」 その言葉に、オリヴィエの表情が固まる。「ボクが次のオリヴィエになる。海神サマとナターシャ神の加護を手に入れてね」 「ありえないわ、海神も国神も、すでに与えるだけのちからなど持っていないのにどうやって手に入れるのよ」 「奪うのさ。貴女から」 朗らかに応えてカイジールは魔術陣を描く。バルトたちとの戦いで疲弊していたからか、オリヴィエはあっさりとカイジールの術に嵌った。 きつい潮風が周囲を舞う。地面を這うように植物の深緑の根や茎が縦横無尽に伸びている。この光景をオリヴィエは何度も見たことがある。自分の死期が迫っている。イヤだ、まだ死にたくない。珊瑚蓮の花が咲いたらどっちにしろオリヴィエは一度消滅する。カイジールが革命を起こすまでもなく、オリヴィエがいなくなるのは決まっているのに……「ボクは、貴女をこんな風に逝かせたくない」 それだけのためにカイジールは自分がオリヴィエになろうとしているのだと、きっぱり告げる。 焦燥にかられるオリヴィエを憐れむようにカイジールが見つめている。その状況に息を飲んで見守るバルトと悠凛。そしてオリヴィエから離れた場所でじっと虚空を見つめている仙哉。抜け殻のように身動きすることもなくその場に佇んでいる姿から、すでに鬼神は仙哉から抜け出しているようだ。分が悪いとわかったらすぐに逃げるこの役立たず、と毒づくオリヴィエにも無反応な仙哉はすでに自分を主と認識すらしていない。それもこれも珊瑚蓮の精霊が邪魔をしたからだ。あ
* * * 「……んとに神サマってのはやることなすこと極端だな」 だが、那沙にちからを返したおかげで九十九は自分で道花を救える手立てを得ることができた。まずは檻のなかで自分を傷つけつづける彼女を止めることを考えなくては。 さきほどよりも潮の匂いがきつくなってきている。那沙が海水を降らせたからだろうか。いや、それだけではない気がする。まるで海神が動きだしたかのような……「これも、珊瑚蓮の精霊が起こしたのか?」 檻のなかから『海』のちからで浄化を試みつづける道花によって、周囲の海が活性化されて生き物のように動きだしている? 樹上から見下ろせば、地面にまで海水が流れ込んできている……いや、海水だけではない。緑色の、太い植物の茎のようなものが、あちこちで蠢いている。手のひらよりもおおきな葉は、池に浮かぶ蓮を彷彿させる。書物でしか見聞きしたことのなかった植物が、九十九の前へ現れる。 ――珊瑚蓮だ。 セイレーンの海域でしか確認されていない世界を司る大樹が、かの国を侵食するかのように葉や根を伸ばしてこちらへ向かっている。 九十九は檻のなかでちからを暴発しつづける道花へ叫ぶ。「止めろ! 止めてくれ!」 銀色の閃光が九十九へ牙を向ける。だが悪しきモノに憑かれていない九十九にその浄化の閃光は効果がない。九十九は道花が囚われた檻を壊そうと手を突っ込み、詠唱する。 パキっと小気味良い音と同時に、九十九は檻のなかへ倒れこむように飛び込む。九十九に押し倒される形になった道花がギョっとした表情で、詠唱を止める。 無言のまま、ふたりは見つめ合う。 九十九は道花の火照った身体をぎゅっと抱きしめ、治癒術を施す。『地』の加護によって道花のなかで暴れていた闇鬼が凍りつき粉砕し、穴が開いていた記憶が一気に戻ってくる。 「……ハクト、だ」 道花の声が、九十九に届く。 「遅くなった」 「助けてなんて、言ってない」 自分でどうにかできると思っていた。けれど、ひとりで闇鬼をやっつけることは最後までできなかった。結局、彼を頼ってしまった。 それが、情けなくて悔しい。 けれど九十九は笑っている。「おれが助けたかったんだ」 「でも」 「マジュミチカ」 真名を囁かれ、道花の動きがぴたりと止まる。 「珊瑚蓮が、呼んでいる」 道花のちからに
「その前に、あんたをとっちめてあげるわ!」 どこからともなく響く水音とともに、銀髪の美女が降ってくる。呆気にとられた表情の玉登を見て、九十九がにやりと笑う。「誤算だっただろう? いま、ここには誓蓮の土地神、那沙さまが来ているんだ。天青石は彼女にくれてやったよ」 「そ。おかげさまでもとの姿を取り戻せたし、おまけにオリヴィエが持ってた『海』のちからまで手に入れちゃった。いまのあたし最強!」 十歳ほどの容姿だった那沙は、二十代の美女に成長していた。人魚の女王オリヴィエと比べると清楚で可憐な容姿だが、海を湛えるような碧の瞳が持つ意志の強さがそれを見事に裏切っている。 大樹や神殿に大量の水が降り注ぐ。それも、海水が。思いっきり水を被った玉登は顔をしかめ、ぶるりと身体を震わせる。 炎をあげていた神殿が呆気なく消火され、焦げた匂いが潮の香りとともに漂ってくる。「……なぜだ! なぜ誓蓮の国神にちからを戻した!」 土地神に封じられていた那沙を国神に戻すなど正気の沙汰ではない。九十九など彼女に殺されてもおかしくないというのに。「なぜって? あたしたち同志なの」 那沙は舌舐めずりをするように玉登に近づき、そっと指先で魔術陣を描く。『地』の加護を持つ玉登には、異国の呪術の方がよく効くだろうと木陰が教えてくれたから。 蜘蛛の糸のように粘り気のある銀糸が玉登を包み込み、動きを封じ込める。繭のように丸くなったそれを那沙は軽々と持ち上げ地面へ放り投げる。「……っと、神サマってやることなすこと極端すぎですよ」 九十九を守護する結界を張っていた木陰が那沙の投げた玉登の入った繭を浮かばせ、詠唱する。「――神に逆らいし斎が命じます、罪多き『地』の息子に忘却の眠りを」 「子どもはねんねしてればいいのよ」 那沙は繭のなかで木陰によって眠らされた玉登を見下ろし、ふぅと息をつく。「それより九十九。この冥界の大樹、海水だけで枯らすのは難しいわ。道花を助けるためにまずは」 「まずは?」 「あんたも檻のなかに入りなさい」 「ぅわっ!」 九十九が立っていた場所から水が吹きあがり、そのまま道花が閉じ込められている檻の傍まで吹っ飛ばされる。 それを見ていた木陰は那沙がこっちを見たのに気づき、顔を強張らせる。「そこの逆さ斎! ぼうっとしてないで次にしなきゃいけないこと考
* * * 「あんの莫迦!」 道花が檻のなかでちからを暴発させるのを待っていたかのように、神殿が炎に包まれる。狗飼一族は仙哉を幽鬼にされたことで誰もが身動きを取れなくなっていた。 バルトの『天』の血をひく悠凛だけは自力で動けるようだが、鬼神を無視して動くオリヴィエを彼らだけで止めることができるかは難しい状況だ。「神殿のことはボクに任せて」 「慈流どの……」 カイジールは至高神と取引をしたことで女性になり、自由の身になったという。詳細はわからないが、カイジールの選択は九十九に希望を与えた。彼が五代目オリヴィエを襲名すれば、いまの女王の『海』のちからは完全に消滅する。「ボクは女王陛下も道花も救う。たとえキミが女王陛下を許せないと言ってもね」 「だが、鬼神と手を組んだ央浬絵どのはもはや人魚というよりも異形に近い存在だ」 「このまま珊瑚蓮の黒花を咲かせようとしている鬼神に従って命を散らすより、桜色の花を咲かせて女王の意志で未来を選ばせた方がマシだ……たとえその先にあるのが死でしかないとしても」 珊瑚蓮の花が咲くと、女王は死ぬ。 その前にオリヴィエの名を継ぎ、カイジールは身代わりになろうとしている。 このまま黒い珊瑚蓮が花開けば、いまのオリヴィエは海神の加護を持ったまま消え、世界を混沌に陥らせてしまう。それでは鬼神の思うつぼだ。 だから至高神はカイジールを唆したのか。自分ではなく。九十九は神殿へ走って行ったカイジールの後ろ姿を見送ってから、道花の囚われた大樹の檻を睨みつける。彼女はいまも自分が傷つくのを構うことなくちからを使いつづけている。「……もうやめてくれ」 銀色の閃光が周囲を灼きつくすたびに響く彼女の悲鳴が、九十九を襲う。自分のなかに潜む闇鬼を浄化しようと自分自身に術を放つ彼女の姿は自殺行為だ。樹上の玉登は焦る表情の九十九を嬉しそうに見つめている。「珊瑚蓮の精霊もずいぶんしぶといですね。あのまま闇に堕ちてしまえば楽だったでしょうに、このままだとほんとうに死んじゃいますよ?」 「……何が望みだ」 「御身を差し出して彼女を救うつもりで? そんなことをしても彼女は喜びませんよ」 「知ってる。だからそれ以外でだ」 「では、あなたが持っている天青石をください」 人魚の女王オリヴィエが持っていたちからの半分とナターシャ神の本
* * * 意識を失ったのはほんの一瞬のことだったらしい。右も左もわからない誰もいない暗闇に、道花はひとりぼっちになったような錯覚を覚える。「……あれ、あたし」 何か大切なことを忘れてしまったような気がする。自分はこれからなさねばならないことがあったはずなのに、どうしてだろう、もうそんなことどうでもいいではないかと投げやりな気持ちになっている。 すべてを無にしたら楽になれるだろうか。そう思ったことは一度や二度ではない。けれど根が楽観的な道花はそうなるための苦しみを想像するのが厭で、結局生きることを選びつづけた。母親に生命を狙われつづけていたと知らされたいまだって…… こんなところでじっとしてなどいられない、早く彼と合流しなくちゃ!「彼って誰だっけ?」 こめかみがずきずきする。時折走るこの痛みはなんだろう、また女王が呪詛でもしかけたのだろうか。けれど、浄化をしようにも原因がわからないから、いまの道花にはどうすることもできない。 ふと、視界が拡がり、道花の前におおきな火柱が立つ。これは、どこだろう。まさか、帝都……? また、ズキリと頭が痛む。考えることをやめさせようとする頭痛に、道花は顔を顰めたまま、火柱を睨みつける。神皇帝と対立する何者かが帝都に火をつけたのだろうか。それともこれは道花に見せている幻覚か……「って、現実だろうが幻覚だろうがどっちでも消さなきゃダメでしょ」 見過ごすなんて許されることではない。道花を焦らせるための幻覚であったとしても、彼女はそれを止めさせるために動くことをやめられない。 頭痛を無視して神謡を紡ぐ。暗闇に銀色の閃光が迸る。悪しきものをすべて浄化する珊瑚蓮の精霊のちから。道花はうたうように詠唱しながら火柱を睨みつける。 けれどその先に、紫の衣をまとった少年がいる。道花の行為をやめさせようと必死になって、こっちに向かっている。どうして?「っ!」 焼けるような痛みが全身を貫く。悪しきモノを滅ぼす閃光が、自分を敵だとみなしている。なぜ? 道花は短い悲鳴をあげ、その場へ突っ伏す。まるで透明な壁に遮られているみたい。 それよりも自分を攻撃した閃光に、道花は愕然としていた。着ていたものが焼失し、素っ裸の状態に陥ってしまったのだ。 暗闇のなかに浮かび上がる自らの裸体を確認し、ふるふる身体を震わせた道花は